家に着いたのは夕方五時半過ぎ。まだ陽は落ちておらず、日当たりの悪いアパートの一室にも、細々と夕日が入り込む。
自室へ入り、カーテンをピッチリと閉めて着替えを済ませると、ようやく気分も落ち着いた。
襖を開けて隣室を覗き込む。リビング兼ダイニングというか、どちからと言うと居間、もしくはお茶の間といった感じの部屋。母の寝床は無残に乱れ、寝巻きは床に脱ぎ捨てたまま。
ため息をついて拾い上げ、自分のブラウスと共に洗濯機へ放り込む。電源を入れてダイヤルを回す。ジャージャーと景気の良い水音が響く。
洗濯物を取り込み、ちゃぶ台の上のマグカップを手に取る。呑みかけの冷えたコーヒーに、思わず手を止めた。
このマグカップで、山脇にコーヒーを出してやったことがある。その時は、聡も居た。
山脇は翌日もこの部屋を訪れた。そして美鶴を抱きしめた。
マグカップを流しに置き、自室へ戻る。畳に座り込み、目を閉じた。片手で目頭を押さえる。
だが、忘れることはできない。
好きだと言われたのは、あの時が生まれて始めてだった。その翌日には聡にも言われた。聡の時は、もっと酷い。
薄く瞳を開き、鼻から下を掌で覆う。
正直、今でも信じてはいない。嬉しいとも思ってはいない。
二人に好意を持たれたことで、全校の女子生徒ほぼすべてを敵にまわしてしまった。もともと美鶴は嫌われ者だが、具体的に敵視されるのはまた違う。
それになんだか、金持ちのボンボンやバカ娘の日常を楽しませる低俗なネタにされているような気がして、腹が立つ。
自分は、所詮バカにされている。
「冗談じゃない……」
思わず吐き出す。
帰宅するたびに思い出される感触と情景に辟易する。これほど落ち着かない自宅など、もはや自宅の意味もない。
過去のつまらないトラウマに縛られているとは分かっている。だが、それでも美鶴は、他人を、特に同年代の人間を蔑んで見てしまう。そして、自分を卑下して見てしまう。
自分を好きになる人間なんて、いるワケがない。
卑屈に二人を疑うことで、必死に今の自分を支えている。そうでなければ、唐渓高校へ進学した意味がない。
進学した意味…
頭の中に湧き上がる疑問を、無理矢理に奥底へ押し戻す。
押入れから布団を引っ張り出し、潜り込む。痩せた寝心地でも、なんとなく落ち着く。
私を好きになる人間なんて、いるワケがない。
脳裏に浮かぶかつての友人を振り払い、美鶴はギュッと瞳を閉じた。
「美鶴」
呼ばれて振り返ると、緩いウィーブがフワリとはねた。クリクリとした瞳は少し伏せ気味。だが、視線はこちらへ向けられている。
美鶴は、相手の名を呼ばなかった。
相手も、それ以上は何も言わない。ただじっと、こちらを見ている。
辺りには誰もいない。ここがどこなのかも、美鶴にはわからない。
暑くもなく寒くもない。だが、やけに喉が渇くのを感じる。
「―――――っ」
唾を呑み込むとヒリッと沁みた。思わず噎せる。
相手が一歩前へ出たが、美鶴は視線で押しとどめた。相手との距離は数メートル。
「………里奈」
荒れる呼吸を整えながら呟く。
相手は、自分の存在が美鶴を動揺させているのだと理解し、居心地悪そうに視線を落した。その仕草が、美鶴を不快にさせた。
里奈を目の前にして動揺している自分と、それを見透かされたという屈辱が、一層呼吸を荒くさせる。
必死に平静を装おうとするが、どうしても呼吸が整わない。暑いワケでもなく狭いワケでもないのに、どうしても息苦しい。
…いや、少し暑いか?
美鶴がふと疑問に思う。気がつくと、辺りには霧。可憐な少女の姿が霞む。霞の中で、少女が寂しそうに笑ったような気がした。
―――――っ!
笑われたっ!
頭に血が上り、何か叫ぼうと息を吸った。
ゲホッ! ゲホゲホッ
薄く開けた目に痛みを感じ、すぐに閉じる。吸い込んだ空気はこの上なく乾燥していて、美鶴の喉を責めたてる。
苦しい……
布団の上を這いながら、もう一度目を開く。
何も見えない。
辺り一面、霞がかかって何も見えない。
夢か?
いつの間に眠っていたのだろうか?
ぼんやりとする頭を一発叩く。意を決して起き上がると、辺りを見た。
霞の中に、見覚えのある部屋が広がる。辺り一面の霞。
いや、霞ではない。
――――煙だっ!
反射的に飛び上がると、隣室への襖を開いた。
居間も台所も煙が充満している。
玄関へ視線を移す。
紅い布のような炎が、ヒラヒラと踊るように玄関から伸び上がっている。暑さの原因はこれだったのか。
もはや玄関からの出入りは不可能。美鶴は自室へ戻り、窓を開け乗り出した。
「火事だぁっ!」
叫ぶ声と、遠くで鳴り響くサイレン。美鶴は呆然と、眼下の野次馬を見下ろした。
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